【sample】渦をとびこえて

 

 

 渦をとびこえて

 

 いつもよりワンフレーズ長いチャイムが、休み時間と午後の授業の境目をまたぐ。私は行方不明になった理科のワークを探して、一冊一冊、積み上がった置きベン教科書たちをのけていた。

 背中にがん、と何か当たり、勢いでロッカーに頭をぶつけた。すぐに走り回っていた江波のしわざとわかる。振り向くと、奴はすでにツリ目の鉄平と教卓を挟み、フェイントをかけあっているところだった。

「やだ江波、最低」

 となりで同じようにロッカーを開けていた鈴香が私の代わりに声をあげる。頭のてっぺんに手のひらを当てたらゴワゴワになっていて、髪を結び直しにトイレへ行きたい、と思った。

 千紘がもぞもぞと席を立ったのはそのときだった。江波が上手いこと鉄平をかわして、千紘の薄い胸を、どん、と押しのける。千紘はよろめいて足を絡ませ、自分の椅子をがこん、と倒した。三、四人で話していた女子たちが会話を途切れさせることなくそれを避ける。

「やめろよ」

 表情にはまだ笑顔が残っている。千紘はかがんで椅子を立て直した。そこへ鉄平に先回りされた江波がきびすを返す。

 いやな予感がした。

「どけ」

 弾んだ声で机と机のあいだを走り抜けた江波は、背を向けた千紘にダイレクトにぶつかった。千紘は無防備な体勢だったせいでバランスを崩し、椅子ごと潰れるように床に転がった。今度は女子たちも会話をやめて「大丈夫?」と声をかけた。無言で起き上がったあとに見せた表情は、もう笑っていなかった。

「やめろって言ってんだろうがあ」

 怒鳴り声に、混沌とした教室が静まりかえった。

 肩がびくっとしたのがばれなかったか、目だけであたりを見回す。だれも私なんて見ちゃいなかった。

 千紘がおもむろに奴の胸ぐらを掴む。江波も負けじと掴みかえす。思わず「あっ」と声が出て、あわてて口をおさえた。けれどそれもすぐに別の女子の悲鳴にかき消された。

 いつのまにか止まらなくなって、二人はもつれながら机をかきわけて取っ組みあいを始めた。予測不能のハリケーンから逃れるように、周りから人がいなくなる。

 それからはもう散々だった。だれかのペンケースの中身が床に散乱し、拾い上げようとした律儀な井上くんが可哀想なくらいまともに江波の肘打ちをくらった。黒板消しが落ちてあたりが煙たさに包まれ、だれかの防犯ブザーが止まらなくなる。女子が鼻をすすり、しっかり者の、たぶん委員長が「喧嘩でーす」と先生を呼びに教室を飛び出した。

 

 ほどなくして理科の中山先生が大きなお腹を揺らしながら教室に入ってきたのがせめてもの救いで、突然起こった異常気象はなんとかおさまった。

「先生、窓が割れました、割れてます」

 誰かが亀裂の入った窓を指差して先生に教えた。はあっというため息ののち「自習」が言い渡される。

 全身に脂肪のついた先生にかかえられてもなお、江波は顔を真っ赤にして足をじたばたさせていた。先生が「いい加減にしろ」と頭を叩くと、そういうおもちゃのように「いってえ」と声をあげた。

 千紘はその声に眉をよせ、つぎにロッカーの前に突っ立っていた私をちらっと見た。唇のはしがちょこっと切れて、痛そうだった。ほっぺたの筋肉がこわばる。下手くそな作り笑いを浮かべたら、笑いかえすでもなくスルーされた。それでもさっきまでの剣幕は消えていたから、少しだけ安心する。

 何日か前に給食で出た乾燥レーズンが床の目のあいだに挟まっている。「第一志望校全員合格」と書かれたポスターは右上の画鋲を失くし、うなだれるようにめくれていた。

 

「ずっと染みてくるね、血」

「まあ、曲げるところだからな」

 そう言って千紘は右腕をよじった。右ひじを覆う大きなガーゼが赤黒く染まっている。

 換気用のすりガラスまで閉めきった教室で、担任の吉永先生と江波はかれこれ二十分くらい話している。渡り廊下の壁にもたれて「遅いね」とつぶやいたら、千紘は「当たり前じゃん」と笑った。

「窓やっちゃってんだもん」

 状況がわかっているのかいないのか、本人はけろっと涼しい顔だ。

 吹奏楽部員が一人ずつ譜面台を持って、隣の教室に消えた。全員顔のまわりの毛を垂らさない髪型をしている。

「でも割ったのは千紘だよ」

 窓ぎわの棚に乗り上げたとき、千紘の肘が窓にヒビをいれた。破片はあまり飛び散らず、亀裂もそれほど大きくはなかった。むしろ怪我した腕のほうがひどい。

 結局、千紘の怪我という怪我はそこと唇くらいで、それ以外はシャツの胸ポケットが引きちぎられているくらいだ。あした腫れるかも、と水道水で冷やしていた頬も、今はなんともなかった。

「めずらしいね、キレるの」

 めずらしいもなにも、初めてみた。初めて。目の前の家に住んで、十四年かけて、初めて。

 千紘はうーん、と返事に困って、わかんね、とごまかした。嵐のなごりでぼさっとなった髪が耳にかかる形になっている。いつの間に伸びたのだろう。小学生のころは耳がぜんぶ見えるくらい短かったのに。

 丸みを帯びたクラリネットの音が音階を上ったり下ったりする。細かくきざむ小動物の足音みたいだ。私は壁にぴたりと耳をくっつけた。ひやん、と冷たい感触で、世界が半分に分かれる。外気にさらされた左耳で放課後の校舎が吐き出す息を感じた。メトロノームが無機質に鳴り出す。

「千紘って言葉づかい悪いよね」

「そうでもないでしょ。フツーじゃない」

 あぐらをかいた膝小僧をぽりぽりとやる手が、拳をつくったらあんなに角ばって大きいだなんて、想像したこともなかった。千紘の知らないところをあっちもこっちもいっぺんに見てしまって、私は少しだけすねていた。

「ううん、悪いよ、不良みたい」

「そんなわけあるかあ」

 このへらっとした笑い方が、今日は私の口をへの字にする。不良のケンカだったよ、と言おうとしたけれど、私も千紘が不良だとは思わないから、やめておいた。

 突然、教室のオンボロな扉が引っかかりつつも乱暴に開いた。なかから仏頂面の江波が出てきて、「折井、先生が入れだって」とうながす。千紘とは対照的に、いかにもケンカしたあとだと主張するアザができている。今でこれだから、日がたてば青タンになってもっと目立つだろう。それも頬骨のところだから、最悪。

 おう、と二つ返事で千紘が立ち上がった。そんな二人のやりとりが頭の入りくんだ部分でひっかかる。千紘はいくら派手に爆発しても、案外切り替えが早い。そういえばお姉ちゃんが「ハリケーンが消える」とか「消えない」とか話していたっけ。遠い大陸の関係のない話。

 江波が「深中蹴球部」のエナメルを背負って、階段を駆け下りていく。一瞬の葛藤の末、バイバイ、と言ったら無視だった。サッカー部なんて夏前に引退したはずなのに、いつまで部活のバッグを背負っているのだろう。

 千紘は私の横に自分のスクールバックを並べて、入れ替わりで教室に入っていった。学校全体が古いので、壁の木枠はすり減り、ささくれだっている。出来心で触れてみたらちくっと痛みが走って、私は慌てて手をひっこめた。

 

幅観月 (2018) 「渦をとびこえて」

 

c.bunfree.net

11/25「文学フリマ東京」にて頒布予定の個人誌「渦をとびこえて」のお試し読みです。すこしでも気になってくださった方はぜひ、サークル「雪と森」(E-08)まで遊びにいらしてください。合同誌「雪と森 vol.1」をはじめ、素敵な冊子をそろえてお待ちしております。