エンゼル

居候で二十一歳のへぼが大学を留年した。 へぼの本当の名前はミツルという。光と書いてミツル。 いい名前だと思う。

父さんいわく、ミツルは「へぼいガキ」なのだそうだ。 だからわたしも一緒になって、へぼ、と呼んでいる。 本人はなんだかんだこのあだ名を気に入っていて、 さいきんは自分のこともへぼ呼ばわりする。 わたし以外のだれかがへぼと呼ぶのを聞くのは、 あんまり好きじゃない。本人だから、ぎりぎり許すけれど。

最寄り駅の踏切沿いにある本屋に寄って、 あてもなく店内を一周してから、南岸商店街の門看板をくぐる。 どっしりとした佇まいとは裏腹に、 看板ははんぶんも埋まっていない。 父さんがわたしくらいの年だった頃は、南岸商店街といえば、 このへんではちょっと名のあるスポットだったという。

「工房ミツミネ」の戸を開けると、父さんも母さんもいなかった。 わたしのうちは、洋服やカバンのお直しをする店をやっている。 おじいちゃんのお父さんが始めた店で、父さんで三代目だ。 一階が店舗と作業場になっていて、 わたしは家にいるほとんどの時間を二階で過ごす。

店の脇の階段から二階へあがろうとすると、 いちばん上の段に座りこんでいるへぼと目があった。

「おかえり、ハネ」

「なんでここでラーメン食べてんの」

わたしが指さすと、 へぼは自分の持っているカップラーメンのパッケージをぐるりと眺 めた。

「うまいよ、これ。セブン限定だって」

柚子胡椒風味のあっさり系で、追い胡椒をするといいらしい。 容器から具が飛び出してみえるのは、 焼き豚とネギを足しているからだった。 もう五時になるというのに、ずいぶん遅い昼食だ。この調子では、 今日も大学へ行けなかったのだろう。最近、 とくに留年が決まってからは、 わたしから大学のことには触れないようにしている。とすると、 どうしてここでラーメンを食べているのか、 という質問はちょっと失敗だったかもしれない。

へぼが手すりのほうへずれたので、壁側をのぼる。 金属の板が乾いた音をたてる。へぼがお尻をついている段だけ、 わずかに低い音がした。すれ違おうとすると、ハネ、と呼ばれる。

「今日も塾?」

「ほんとはないけど、中間試験対策のチケットがあるから、 いくよ」

ふうん、とほとんど空気みたいな声を出すへぼは、 わたしではなく、 家の脇の国道を行き交う車の音に気をとられている。 そっちの方角、最寄りからみっつめの駅からすぐのところに、 へぼの通う大学がある。

「何時に終わる? 迎えにいくから、そのまま散歩いこう」

やだね、と言ってやりたい。言えないから、かわりに「 ソフトクリーム」と答える。

「ええ、また?」

おおげさに舌をだす仕草が夏バテした犬みたいで、 思わず笑ってしまう。わたしが笑うとわかっていて、 わざとやっている。反対に、わたしもへぼが塾へ来たがるのは、 華子ちゃんが講師のアルバイトをしているからだってこと、 ちゃんとわかっている。

 

 

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※つづきは想像上の町を舞台にした作品集「想像上の路地」で読めます。

9/8のブックハンターセンダイを皮切りに、10/12のtext revolutionsでも頒布予定です。

A5版88ページ、500円。想像上の地図つき。

知り合いの方にかぎりお取り置き、ちょくせつお渡しもできますので、興味を持ってくださった方はぜひよろしくお願いいたします。

想像上の路地に遠足のしおりが落ちてる

 となりの部屋に住んでいる21才のへぼが大学を留年した。

「酒屋のあんこちゃん、同い年なのに店の手伝いしててえらいと思う」 

    窓の外を眺めるへぼは、たぶん学校をやめることを考えている。

 酒屋のとなりのフジナミ青果に、さいきん男の売り子がやってきた。そいつのせいで、まっ昼間からおばさま方の黄色い声がうるさい。

 そろそろ買い出しにいこうか、と誘うと、へぼはあからさまに面倒臭そうな顔をした。いるかもしれないよ、猫。そう言ってやると、少しだけ表情が晴れた。

 へぼがあくびをする。へぼは猫が好き。わたしはアレルギーだ。

 商店街のあいだの細い路地は、いつも雨上がりみたいに地面が湿っている。塗装の剥げた消火器の下に、誰かが猫缶を置いていき、またべつの誰かが片付けていく。実際に猫を見かけたことはない。へぼは「絶対いるよ」と言って曲げない。だからわたしたちは商店街にいくときに必ず路地を通ることにしている。
 ラジカセから、町おこしのために地元の高校生が作った音楽が流れ出した。来週の土曜日、祭りがあるらしい。

「あれ見ろよ、酔っ払いみたい」

 電線にひっかかった風船を指さして、へぼはのんきに笑ってる。

船に乗る

 シーズンの終わった海水浴場には、のほほんと丸い時間が流れる。

「みんな海に飽きちゃったのよ」

 桂は、ひとけのない浜辺を自分の庭を歩くような足取りでどんどん進んでゆく。O脚の足は浅く弧を描いて砂を踏んだ。足跡にサンダルをはめて歩いてみたら、桂がいやに小股なのがわかった。

 わたしたちは海に沿って素直に浜をわたり、掘建小屋でかき氷を食べた。

「甘くて美味しいでしょう」

 ふたり並んでスプーンを口に運んでいると、かき氷屋の女の人が窓からほほえんだ。 小屋の横にある長椅子は四本とも足が細く、座ると真ん中がわずかに沈む。へんな音がしたらすぐに立ち上がろうと思っていたけれど、そんな音はしなかった。桂も気にしていないから、私も腰をおろしたままにした。

「氷も甘い気がしない?」

 初対面の女の人と話すのは気が引けて、桂に話しかけてしまう。自分の子どもっぽさに気づいてはずかしい。

「そうなのよ。よくわかったわね」

 女の人はわたしの言葉をひろって、少しだけ嬉しそうにした。そしてそのまま小屋の中へもどっていった。

 桂は彼女がいなくなったのを見届けてから、「あの人、しゃべるのね」と声をひそめた。

 氷にかかったみつは透明で、なんの露なのか見当もつかない。舌にのった瞬間、水分と溶け合って口の中のどこかに消えてしまう。

 海の上に赤と白のうきが同じ数だけ浮いている。ここから見える海は、わたしの口のなか何個ぶんの大きさなのだろう。 

  桂が氷をスプーンに乗せて、満足そうに笑う。本人はいやがるだろうが、わたしは彼女の八重歯が好きだ。

 おちょぼ口の先がぞおっと開く。つららをさかさまにしたような、崩れそうな氷の山。先っぽから桂の口の中へ消えていった。 

  桂とわたしは船を待っている。世界を旅してこの窪みを通りかかる人がいれば、浜辺から手を振るのが仕事だ。

【sample】渦をとびこえて

 

 

 渦をとびこえて

 

 いつもよりワンフレーズ長いチャイムが、休み時間と午後の授業の境目をまたぐ。私は行方不明になった理科のワークを探して、一冊一冊、積み上がった置きベン教科書たちをのけていた。

 背中にがん、と何か当たり、勢いでロッカーに頭をぶつけた。すぐに走り回っていた江波のしわざとわかる。振り向くと、奴はすでにツリ目の鉄平と教卓を挟み、フェイントをかけあっているところだった。

「やだ江波、最低」

 となりで同じようにロッカーを開けていた鈴香が私の代わりに声をあげる。頭のてっぺんに手のひらを当てたらゴワゴワになっていて、髪を結び直しにトイレへ行きたい、と思った。

 千紘がもぞもぞと席を立ったのはそのときだった。江波が上手いこと鉄平をかわして、千紘の薄い胸を、どん、と押しのける。千紘はよろめいて足を絡ませ、自分の椅子をがこん、と倒した。三、四人で話していた女子たちが会話を途切れさせることなくそれを避ける。

「やめろよ」

 表情にはまだ笑顔が残っている。千紘はかがんで椅子を立て直した。そこへ鉄平に先回りされた江波がきびすを返す。

 いやな予感がした。

「どけ」

 弾んだ声で机と机のあいだを走り抜けた江波は、背を向けた千紘にダイレクトにぶつかった。千紘は無防備な体勢だったせいでバランスを崩し、椅子ごと潰れるように床に転がった。今度は女子たちも会話をやめて「大丈夫?」と声をかけた。無言で起き上がったあとに見せた表情は、もう笑っていなかった。

「やめろって言ってんだろうがあ」

 怒鳴り声に、混沌とした教室が静まりかえった。

 肩がびくっとしたのがばれなかったか、目だけであたりを見回す。だれも私なんて見ちゃいなかった。

 千紘がおもむろに奴の胸ぐらを掴む。江波も負けじと掴みかえす。思わず「あっ」と声が出て、あわてて口をおさえた。けれどそれもすぐに別の女子の悲鳴にかき消された。

 いつのまにか止まらなくなって、二人はもつれながら机をかきわけて取っ組みあいを始めた。予測不能のハリケーンから逃れるように、周りから人がいなくなる。

 それからはもう散々だった。だれかのペンケースの中身が床に散乱し、拾い上げようとした律儀な井上くんが可哀想なくらいまともに江波の肘打ちをくらった。黒板消しが落ちてあたりが煙たさに包まれ、だれかの防犯ブザーが止まらなくなる。女子が鼻をすすり、しっかり者の、たぶん委員長が「喧嘩でーす」と先生を呼びに教室を飛び出した。

 

 ほどなくして理科の中山先生が大きなお腹を揺らしながら教室に入ってきたのがせめてもの救いで、突然起こった異常気象はなんとかおさまった。

「先生、窓が割れました、割れてます」

 誰かが亀裂の入った窓を指差して先生に教えた。はあっというため息ののち「自習」が言い渡される。

 全身に脂肪のついた先生にかかえられてもなお、江波は顔を真っ赤にして足をじたばたさせていた。先生が「いい加減にしろ」と頭を叩くと、そういうおもちゃのように「いってえ」と声をあげた。

 千紘はその声に眉をよせ、つぎにロッカーの前に突っ立っていた私をちらっと見た。唇のはしがちょこっと切れて、痛そうだった。ほっぺたの筋肉がこわばる。下手くそな作り笑いを浮かべたら、笑いかえすでもなくスルーされた。それでもさっきまでの剣幕は消えていたから、少しだけ安心する。

 何日か前に給食で出た乾燥レーズンが床の目のあいだに挟まっている。「第一志望校全員合格」と書かれたポスターは右上の画鋲を失くし、うなだれるようにめくれていた。

 

「ずっと染みてくるね、血」

「まあ、曲げるところだからな」

 そう言って千紘は右腕をよじった。右ひじを覆う大きなガーゼが赤黒く染まっている。

 換気用のすりガラスまで閉めきった教室で、担任の吉永先生と江波はかれこれ二十分くらい話している。渡り廊下の壁にもたれて「遅いね」とつぶやいたら、千紘は「当たり前じゃん」と笑った。

「窓やっちゃってんだもん」

 状況がわかっているのかいないのか、本人はけろっと涼しい顔だ。

 吹奏楽部員が一人ずつ譜面台を持って、隣の教室に消えた。全員顔のまわりの毛を垂らさない髪型をしている。

「でも割ったのは千紘だよ」

 窓ぎわの棚に乗り上げたとき、千紘の肘が窓にヒビをいれた。破片はあまり飛び散らず、亀裂もそれほど大きくはなかった。むしろ怪我した腕のほうがひどい。

 結局、千紘の怪我という怪我はそこと唇くらいで、それ以外はシャツの胸ポケットが引きちぎられているくらいだ。あした腫れるかも、と水道水で冷やしていた頬も、今はなんともなかった。

「めずらしいね、キレるの」

 めずらしいもなにも、初めてみた。初めて。目の前の家に住んで、十四年かけて、初めて。

 千紘はうーん、と返事に困って、わかんね、とごまかした。嵐のなごりでぼさっとなった髪が耳にかかる形になっている。いつの間に伸びたのだろう。小学生のころは耳がぜんぶ見えるくらい短かったのに。

 丸みを帯びたクラリネットの音が音階を上ったり下ったりする。細かくきざむ小動物の足音みたいだ。私は壁にぴたりと耳をくっつけた。ひやん、と冷たい感触で、世界が半分に分かれる。外気にさらされた左耳で放課後の校舎が吐き出す息を感じた。メトロノームが無機質に鳴り出す。

「千紘って言葉づかい悪いよね」

「そうでもないでしょ。フツーじゃない」

 あぐらをかいた膝小僧をぽりぽりとやる手が、拳をつくったらあんなに角ばって大きいだなんて、想像したこともなかった。千紘の知らないところをあっちもこっちもいっぺんに見てしまって、私は少しだけすねていた。

「ううん、悪いよ、不良みたい」

「そんなわけあるかあ」

 このへらっとした笑い方が、今日は私の口をへの字にする。不良のケンカだったよ、と言おうとしたけれど、私も千紘が不良だとは思わないから、やめておいた。

 突然、教室のオンボロな扉が引っかかりつつも乱暴に開いた。なかから仏頂面の江波が出てきて、「折井、先生が入れだって」とうながす。千紘とは対照的に、いかにもケンカしたあとだと主張するアザができている。今でこれだから、日がたてば青タンになってもっと目立つだろう。それも頬骨のところだから、最悪。

 おう、と二つ返事で千紘が立ち上がった。そんな二人のやりとりが頭の入りくんだ部分でひっかかる。千紘はいくら派手に爆発しても、案外切り替えが早い。そういえばお姉ちゃんが「ハリケーンが消える」とか「消えない」とか話していたっけ。遠い大陸の関係のない話。

 江波が「深中蹴球部」のエナメルを背負って、階段を駆け下りていく。一瞬の葛藤の末、バイバイ、と言ったら無視だった。サッカー部なんて夏前に引退したはずなのに、いつまで部活のバッグを背負っているのだろう。

 千紘は私の横に自分のスクールバックを並べて、入れ替わりで教室に入っていった。学校全体が古いので、壁の木枠はすり減り、ささくれだっている。出来心で触れてみたらちくっと痛みが走って、私は慌てて手をひっこめた。

 

幅観月 (2018) 「渦をとびこえて」

 

c.bunfree.net

11/25「文学フリマ東京」にて頒布予定の個人誌「渦をとびこえて」のお試し読みです。すこしでも気になってくださった方はぜひ、サークル「雪と森」(E-08)まで遊びにいらしてください。合同誌「雪と森 vol.1」をはじめ、素敵な冊子をそろえてお待ちしております。